私の世界が変わった日 [日記]
今日は3.11から4年
当時は東京に住んでいて、あの日は仕事の納品が終わった後で自宅で息子の保育園用エプロンを作ってミシンの前にいた。
揺れが来る3分ぐらい前に携帯のメール着信音がしたけれど、メールを確認しないでミシンの針を進めていた。
ぐらっと来てどんどん揺れが大きくなる。
『マジか、、、ついにその時が来ちゃったんだ』
と妙な気分になったけれど、何をどうして良いか分からず、コップの水は溢れそうになり、大きなキリンは棚から落ちたけれど、3ヶ月前に買ったばかりの液晶テレビを押さえていた。
めちゃくちゃ何長い時間揺れているように感じた。
しばらくするとメール着信音。
ラジオでは今揺れた地震で皆さん大丈夫ですかと言っていて、まだ情報がほとんど無い。
メールを見ると1つ目は、揺れが来る前に届いた相方の実家方面を登録をしていた宮城県の地震の速報だった。
その頃、結構な頻度で宮城県の地震が震度4とかっていうメールが来ていたけれど、その地震の震度を見てただごとではないとやっと気づいた。
それでもボケボケだった私は窓の外を見て目立ったひどい被害がないのを見て東京は平常なのかと一瞬思って、、というか思おうとしていたところに保育園ママからもそっちは大丈夫とメールが来た。
自宅件事務所にしている私の自宅は保育園から徒歩2〜3分。
あ。
そうだよ、凄いことが起きているのかもしれない!
とテレビをつける。
宮城の地震の揺れが、遅れて届いたのか・・・
保育園に迎えに行かなきゃ
(遅っっっっ)
スキーのヘルメットを被って、息子のスキーのヘルメットを持って保育園に向かった。
途中、古いブロック塀の横を通る時に大きい余震があり、子供の頃に見た宮城県沖地震のブロック塀が倒れている画像がよぎった。
保育園に着くと園庭に黄色い防災頭巾を被った子供たちが身を寄せあって座っていた。
緊急で避難したので当然靴下は履かず、避難靴を忘れた我が子は裸足。上着なんて来ている時間が無いから、寒い中みんな毛布に包まっていた。
↑お昼寝時間中だったので、パジャマのこどもたちも居て(息子の代からパジャマは撤廃されていた)寒そうだった。
0歳クラスの子から皆ちゃんと避難していて、月に1度の避難訓練は本当に役に立っているんだと関心し、ただただ保育園の先生に感謝をした。
アドレスを知っている保育園ママ友に皆無事だよと写真付きでメールを送って、余震が少し落ち着くまでこどもたちと園庭にいた。
家に帰ってテレビをつけると、津波の映像。。。
相方の実家は多賀城市。
まさか、、、
なんとかメールで連絡が取れて無事を確認。
ただ、義父は連絡が取れないと、、、
相方には電車が止まっているから無理に帰って来なくていいとメール。
結局6時間近く歩いて帰って来てから、そのメールが届く事になったんだけれど。
その後、福島第一原発の爆発。
相方の実家は全員無事だけれど、不自由な生活を送っているのに、息子と私だけ避難して良いのか、、、妙に悩んでしまった事。
日本は終ってしまった様な気にさえなってしまっていた。
でも、そこで気がついた。
今の時代、色んなリスクがある生活はみんな同じ様にしているイバラの道。
だけど、それまではイバラの道である事さえ知らずに歩いていた。
ちょっとした刺が出ているなって思う位。
でも、イバラの道を歩いている事を知り、
そのイバラには毒がある事を知り、
そのままそのイバラの道はこどもを連れて歩けないと思う様になった。
最小限のリスクで育てたいと。
ある人は、「知りたくなかった」という。
知ってしまったら、避けたくなるから。
ある人は、「そんな大げさな」という。
確率の低い病気の為の予防接種は受けさせるのに?
(予防接種が安全で効くという事が前提の話しだけど)
知ってしまったし、大げさでも可能性があるなら極力避けられる事は避けたいと思う様になった。
ま〜、慣れてしまえば普通の事。
ただ、まだまだ知らないまま、知ろうとしないまま生活を余儀なくされている人達がたくさんいる事や、遠くに離れて住んでいて完全に過去の様になっている人も、今日3月11日には思い出して欲しいと思う。
去年の夏、多賀城市から仙台空港まで行く道すがらまだまだ終ってないと感じた。
もう一つ終ってない福島第一原発は、事故が起きた。のではなく、只今事故が継続中だと言う事も。
黙祷
当時は東京に住んでいて、あの日は仕事の納品が終わった後で自宅で息子の保育園用エプロンを作ってミシンの前にいた。
揺れが来る3分ぐらい前に携帯のメール着信音がしたけれど、メールを確認しないでミシンの針を進めていた。
ぐらっと来てどんどん揺れが大きくなる。
『マジか、、、ついにその時が来ちゃったんだ』
と妙な気分になったけれど、何をどうして良いか分からず、コップの水は溢れそうになり、大きなキリンは棚から落ちたけれど、3ヶ月前に買ったばかりの液晶テレビを押さえていた。
めちゃくちゃ何長い時間揺れているように感じた。
しばらくするとメール着信音。
ラジオでは今揺れた地震で皆さん大丈夫ですかと言っていて、まだ情報がほとんど無い。
メールを見ると1つ目は、揺れが来る前に届いた相方の実家方面を登録をしていた宮城県の地震の速報だった。
その頃、結構な頻度で宮城県の地震が震度4とかっていうメールが来ていたけれど、その地震の震度を見てただごとではないとやっと気づいた。
それでもボケボケだった私は窓の外を見て目立ったひどい被害がないのを見て東京は平常なのかと一瞬思って、、というか思おうとしていたところに保育園ママからもそっちは大丈夫とメールが来た。
自宅件事務所にしている私の自宅は保育園から徒歩2〜3分。
あ。
そうだよ、凄いことが起きているのかもしれない!
とテレビをつける。
宮城の地震の揺れが、遅れて届いたのか・・・
保育園に迎えに行かなきゃ
(遅っっっっ)
スキーのヘルメットを被って、息子のスキーのヘルメットを持って保育園に向かった。
途中、古いブロック塀の横を通る時に大きい余震があり、子供の頃に見た宮城県沖地震のブロック塀が倒れている画像がよぎった。
保育園に着くと園庭に黄色い防災頭巾を被った子供たちが身を寄せあって座っていた。
緊急で避難したので当然靴下は履かず、避難靴を忘れた我が子は裸足。上着なんて来ている時間が無いから、寒い中みんな毛布に包まっていた。
↑お昼寝時間中だったので、パジャマのこどもたちも居て(息子の代からパジャマは撤廃されていた)寒そうだった。
0歳クラスの子から皆ちゃんと避難していて、月に1度の避難訓練は本当に役に立っているんだと関心し、ただただ保育園の先生に感謝をした。
アドレスを知っている保育園ママ友に皆無事だよと写真付きでメールを送って、余震が少し落ち着くまでこどもたちと園庭にいた。
家に帰ってテレビをつけると、津波の映像。。。
相方の実家は多賀城市。
まさか、、、
なんとかメールで連絡が取れて無事を確認。
ただ、義父は連絡が取れないと、、、
相方には電車が止まっているから無理に帰って来なくていいとメール。
結局6時間近く歩いて帰って来てから、そのメールが届く事になったんだけれど。
その後、福島第一原発の爆発。
相方の実家は全員無事だけれど、不自由な生活を送っているのに、息子と私だけ避難して良いのか、、、妙に悩んでしまった事。
日本は終ってしまった様な気にさえなってしまっていた。
でも、そこで気がついた。
今の時代、色んなリスクがある生活はみんな同じ様にしているイバラの道。
だけど、それまではイバラの道である事さえ知らずに歩いていた。
ちょっとした刺が出ているなって思う位。
でも、イバラの道を歩いている事を知り、
そのイバラには毒がある事を知り、
そのままそのイバラの道はこどもを連れて歩けないと思う様になった。
最小限のリスクで育てたいと。
ある人は、「知りたくなかった」という。
知ってしまったら、避けたくなるから。
ある人は、「そんな大げさな」という。
確率の低い病気の為の予防接種は受けさせるのに?
(予防接種が安全で効くという事が前提の話しだけど)
知ってしまったし、大げさでも可能性があるなら極力避けられる事は避けたいと思う様になった。
ま〜、慣れてしまえば普通の事。
ただ、まだまだ知らないまま、知ろうとしないまま生活を余儀なくされている人達がたくさんいる事や、遠くに離れて住んでいて完全に過去の様になっている人も、今日3月11日には思い出して欲しいと思う。
去年の夏、多賀城市から仙台空港まで行く道すがらまだまだ終ってないと感じた。
もう一つ終ってない福島第一原発は、事故が起きた。のではなく、只今事故が継続中だと言う事も。
黙祷
2015-03-11 15:09
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